|
ローマ人の物語〈16〉パクス・ロマーナ(下) (新潮文庫)
|

|
| ジャンル: | 歴史,日本史,西洋史,世界史
|
| 人気ランキング: | 11231 位
|
| 発送可能時期: | 下記ボタンを押して納期をご確認下さい。
|
| 参考価格: | ¥ 380 (消費税込)
|
ご購入前のご注意
|
当ホームページはアマゾンウェブサービスにより運営しています。
商品販売はすべてアマゾンの取り扱いです。最新価格、製品情報はボタンを押してご確認下さい。
|
|
拡大するローマ国家を導く名指導者像
アウグストゥスの晩年を描く下巻。
冷静かつ巧妙に帝政への手を打ち続けていた青・壮年期と比較して、失政(というほどの失敗でもないが若いころのアウグストゥスの周到さからみれば粗が目立つ)や一族の不祥事が続き、そのことが却ってアウグストゥスの人間らしさを気づかせてくれているような印象を受けました。人間誰しも歳をとると弱気になり、身内を可愛く思うようになるのでしょうが、身内の不祥事にはことのほか心を痛めたのではないでしょうか。
「アウグストゥスが…確立に努めた帝政とは、効率よく機能する世界国家の実現であった」と塩野氏は述べていますが、カエサルにしろアウグストゥスにしろ、私欲というものを全く感じさせず、適確な国家観とそれを実現するグランドデザインをもっていったという2点において、極めて有能な政治家であったと思います。
2000年経った現代でも学ぶことの多い時代であり、それを分かりやすく読みやすく紹介する塩野氏の功績は評価されてしかるべきと思います。
アウグストゥスという「同僚」
アウグストゥスが死を迎え ティベリウスへの帝位委譲が本巻の内容だ。
塩野は カエサルには感動し その後継者であるアウグストゥスには感心している。その癖カエサルの死の場面は 案外淡々と描いたのに対し アウグストゥスの最後は 案外とウェットな雰囲気を読んだ。普通なら カエサルの死に際して大泣きし アウグストゥスに対してはクールで居ても良いとおもうのだが。
こういうのを女心の妙と言うのかもしれない。塩野さんという稀代の歴史小説家は ご自身が女性であることを骨の髄からご理解し かつ 最大限にそれを活かしていらっしゃる方だ というのが このところの5年間の「塩野さんとのローマの旅」で感じる点だ。もちろん これは塩野の才に感嘆しているということだ。
アウグストゥスは カエサルが作った ローマ帝国の「グランドデザイン」を忠実に実現したというのが塩野の基本線である。従い 例えば ライン河ではなくエルベ河を防衛線としようという カエサルのデザイン以外の アウグストゥスの「独創」に関しては 冷ややかに書いているし その「失敗」に関しても めずらしく アウグストゥスを批判的に書いている。
そんな部分に 塩野のアウグストゥスへの思いも感じる。
おそらく塩野はアウグストゥスに 深く同情していたのだと思う。「ローマ人の物語」の 少なくとも前半部分は カエサルをどう書くかに尽きたのだと思う。天才カエサルを仰ぎ見て その行状を追っかけるという点で 塩野とアウグストゥスとは同じ地点に立っていると 塩野自身が思っているのではないか。そんな「同僚意識」も 今回感じたところだ。
アウグストゥスにはカエサルの構想が理解できていなかったのではないか?
シェークスピアの傑作・「シーザー」と、それを題材に何度も映画化したハリウッドとによって、カエサルと言えば、「エジプトの女王・クレオパトラと浮き名を流し、共和制ローマの乗っ取りを計ろうとして共和制支持者に暗殺された人物・・・」というイメージが定着しているようだが、では、カエサルは果たして王になろうとしていたのだろうか?
私見を述べさせて頂くなら、彼が目指そうとしたのは、「王」でも「皇帝」ではなく、むしろ、現在の「大統領」的なものではなかったかと。
では、「大統領」と「皇帝」、そのもっとも大きな違いは何かといえば、それは、言うまでもなく世襲の有無であり、そう考えたならカエサルの死後、遺書により後継者に任じられたのはクレオパトラとの間に出来た一子・カエサリアンではなく、遠縁に当たるオクタビアヌスだったわけで・・・。
もっとも、古代ローマの「皇帝」とは、プリンチェプス・・・、(塩野七生女史に言わせると、「第一人者」という訳が適当だとのことだが、イタリア語やラテン語はおろか、標準語さえも満足にしゃべれない私が敢えて言わせて頂くとしたなら、むしろ、「筆頭市民」と言う訳が適当ではなかったかと。)つまり、元老院により特権を付与されたローマ市民という扱いであり、後世の絶対権力者「皇帝」よりは、やはり、今の大統領に性格は近いように思える。
「大統領」というものを理解できたのは、同時代人ではカエサルだけだったことに彼の悲劇があったのではないか?
(彼の後継者であり、彼の思想を一番的確に理解していたと思われるオクタビアヌスでも、完全には理解し切れてなかった・・・、伝える間がなかったのではないかと。)
そして、後の世まで、それを誰も理解しきれなかったことが、後のローマ帝国崩壊の最大の原因だったと思う。
家族の不祥事
アウグストゥス自ら成立させた倫理観を大事にする法律であったが、娘や孫娘の男関係の奔放さにアウグストゥス自身が恥じ入り一時期は家の外に出ることも自粛していたというのが面白い。更に自ら家父として厳しく実の娘や孫娘を罰しているから流石だと思うが、自らの血をより多く残したいがために有力な男の間をたらいまわしにされる女の身になればたまったものではない。政略結婚と不倫はワンセットでようやくバランス取れる気がしないでもない。
アウグストゥスの死に際しての遺言の内容は詳細を極め、この緻密さが帝国の基盤を作ったのかと驚嘆させられる。
フィクションだったのか?
本書まで私はこの「ローマ人の物語」は史実をもとに書かれていると思い込んで読んでいた。しかし本書で疑問が生じた。本書において、アウグストゥスは詩人オヴィディウスを「愛の技術」と題した詩集を書いた罪で辺境へ追放したが、「愛の技術」は禁書にはならなかったと書かれている(P.80)。しかしオヴィディウス自身によれば「愛の技術」は禁書になっている(「悲しみの歌/黒海からの手紙」 木村健治訳 京都大学学術出版会 P.245 ちなみにこの本は参考文献としてあげられている)。何故このような齟齬が生じているのかが理解できない。‘論理性を欠いている’のは誰なのか。原典の解釈の違いなのか、あるいは追放されていたオヴィディウスは知らなかったのだが、実際は禁書にはなっていなかったという記述が他の資料に残っているのか(残っているのであるのならばそのことを本書に明記するべきだと思うが)。このことは決して瑣末なことではない。なぜなら「愛の技術」を禁書にするかしないかでは、本書の主人公であるアウグストゥスの性格が大きく異なってくるからだ。ただ‘老齢ゆえの、癇癪’で追放したのか、それとも一般人には計り知れない理由があったのか(私はその理由を推測することが著者の腕の見せ所だと思うが)。そのようなことを考え出すと「ローマ人の物語」はどこまでが史実でどこからがフィクションなのかが分からなくなってくる。
もっとも、この物語を最初から‘小説’として割り切って読むのであるのならば何も問題はないが、史実をもとにして書かれていると誤解していた私はすっかり冷めてしまい、本書を最後にこのシリーズを読んでいない。
新潮社
ローマ人の物語〈15〉パクス・ロマーナ(中) (新潮文庫) ローマ人の物語〈14〉パクス・ロマーナ(上) (新潮文庫) ローマ人の物語〈17〉悪名高き皇帝たち(1) (新潮文庫) ローマ人の物語〈19〉悪名高き皇帝たち(3) (新潮文庫) ローマ人の物語〈20〉悪名高き皇帝たち(4) (新潮文庫)
|
|
|
|
|